「魔術(まじゅつ)」芥川龍之介 The Magic by Ryunosuke Akutagawa

Rewrite [N3-N4 level]

 秋の終わりの雨の日の夜、私は東京の郊外にあるミスラ君の家の前に着きました。
 ミスラ君は若いインド人で魔術(まじゅつ)の専門家(せんもんか)です。私は一か月前に友人の紹介(しょうかい)でミスラ君と知り合いました。しかし、政治経済の話はしたことがあっても、魔術を見せてもらったことはまだ、ありませんでした。そこで今夜は事前(じぜん)に魔術を見せてくれるように、手紙で頼んでおいたのです。
 私は雨にぬれながら、標札(ひょうさつ)の下にあるドアベルを押しました。すると間もなく戸が開いて玄関へ顔を出したのはミスラ君の世話をしている背の低い日本人のおばあさんです。
「ミスラ君はいらっしゃいますか。」
「いらっしゃいます。先ほどからあなたを待っていますよ。」
 おばあさんは愛想(あいそ)よくこう言いながら、玄関のつきあたりにあるミスラ君の部屋へ私を案内しました。
「こんばんは。雨の降る中、よく来てくれました。」
 ミスラ君は、元気よく私に挨拶(あいさつ)しました。
「いや、あなたの魔術さえ見ることができれば雨は全く問題ありません。」
 私はイスに座ってから、部屋の中を見まわしました。
 ミスラ君の部屋は質素(しっそ)な洋室で、まん中にテーブルが一つ、壁側に小さな本棚(ほんだな)が一つ、それから窓の前に机が一つ――ほかには我々が座るイスが並んでいるだけです。
 しかもどれも古い物ばかりで、赤い模様の花のテーブルクロスでさえ傷(いた)んでいて、縫い目(ぬいめ)が露出(ろしゅつ)していました。  私たちは挨拶を済(す)ませてから、しばらくは外の雨音(あまおと)を聞いていましたが、やがて、おばあさんが紅茶を持って入ってくると、ミスラ君はたばこの箱の蓋(ふた)を開けて、「一本、いかがですか。」と勧(すす)めてくれました。「ありがとう。」私は遠慮(えんりょ)なくそれを取って、火をつけながら 「ところで、あなたの使う精霊(せいれい)はジンという名前でしたね。すると、これから私が見る魔術も、その精霊の力を使って行うのですか。」
するとミスラ君は自分もたばこの火をつけると、こう言いました。「そのように言われていたのは、ずっと昔のことです。私が学んだ魔術は、あなたでも使えます。進歩した催眠術(さいみんじゅつ)にすぎないのですから。――見てください。この手をただ、こうすればいいのです。」
 ミスラ君は手をあげて、二三度(にさんど)私の目の前へ三角形を描きましたが、やがてその手をテーブルの上へ動かすと、赤い模様の花をつまみ上げました。私はびっくりして、思わずその花を見ました。それはさっきまでテーブルクロスの中にあった模様の花でした。しかし、ミスラ君がその花を私の鼻先へ近づけると、じゃ香(こう)のようなにおいがするのです。私はあまりの不思議(ふしぎ)さに何度も驚きの声をあげるとミスラ君は微笑(ほほえ)んだまま、その花をテーブルクロスの上へ落しました。すると、花は元の通りの織り模様になって、つまみ上げることができません。また、花びらも動かすことができません。
「どうですか。簡単でしょう。今度は、このランプを見て下さい。」
 ミスラ君がこう言いながらテーブルの上のランプを置き直した途端(とたん)、ランプはまるで独楽(こま)のように、まわり始めました。最初は私も非常に驚いて、万一火事にでもなっては大変だと何度も心配しました。しかし、ミスラ君は落ち着いた様子で静かに紅茶を飲んでいます。なので、やがて私も落ち着いて、だんだん速くなるランプの回転を、じっと見ていました。
 それにランプシェードが風を起して回る中に、黄色の炎(ほのお)がたった一つ、灯(とも)っているのは、とても美しく不思議な様子でした。そして、ランプの回るのが、いよいよ速くなり、とうとう回っているようには見えないほど、澄(す)み渡ったと思いますと、いつのまにか、その動きは止まっていました。

「驚きましたか。こんなことは簡単ですよ。あなたが望むなら、もう一つ見せましょう。」
 ミスラ君は後(うし)ろを振り返って、壁側の本棚(ほんだな)を見ましたが、やがてそちらへ手を伸(の)ばして、招くように指を動かすと、今度は本棚に並んでいた本が一冊ずつ動き出して、自然にテーブルの上まで飛んで来ました。両側へ表紙を開いているその飛び方は、まるでコウモリのようです。私はたばこを口にくわえたまま、呆気(あっけ)にとられて見ていましたが、本は何冊も自由に飛びまわって、テーブルの上へピラミッド形に整然(せいぜん)と積み上りました。しかも残らずこちらへ移ってしまったと思うと、すぐに最初来たものから動き出して、もとの本棚へ順々に飛んで戻って行くのです。中でも一番おもしろかったのは、薄(うす)い本が一冊、やはり翼のように表紙を開いて、空へ上りましたが、しばらくテーブルの上で輪を描いてから、私の膝へ逆さまに下りてきたことです。不思議に思って手にとって見ると、これは私が一週間前にミスラ君へ貸したフランスの新しい小説でした。
「長い間、本を貸してくれてありがとう。」
 ミスラ君は微笑(ほほえみ)を含んだ声で、こう私に礼を言いました。もちろんその時はもう多くの本が、みんなテーブルの上から本棚の中へ舞い戻っていたのです。私は夢からさめたような気持ちで、しばらく挨拶さえ出来ませんでしたが、やがて、さっきミスラ君の言った「私の使う魔術は、あなたでも使えます。」という言葉を思い出したので、
「前から話には聞いていましたが、あなたの使う魔術が、これほど不思議なものだとは思いませんでした。ところで私にも使えると言うのは本当ですか。」
「誰にでも簡単に使えます。ただし――」と言いかけてミスラ君はじっと私の顔を見ながら、真面目(まじめ)な口調で、 「ただし、欲のある人間には使えません。魔術を習おうと思ったら、まず欲を捨てることです。あなたにはそれができますか。」
「できるつもりです。」
 私はこう答えましたが、何となく不安な気もしたので、すぐにまた後(あと)から言葉を加えました。
「魔術さえ教えていただければ。」
 それでもミスラ君は疑わしそうな眼つきを見せましたが、さすがにこれ以上、念を押すのは失礼(しつれい)だとでも思ったのでしょう。やがて、ゆっくり頷(うなず)きながら、 「では教えてあげましょう。でも、いくら簡単に使えると言っても、教えるのに時間がかかりますから、今夜は私の家に泊まって下さい。」
「どうもいろいろ恐れ入ります。」  私は魔術を教えてもらう嬉(うれ)しさに、何度もミスラ君へ礼を言いました。しかし、ミスラ君はそんなことを気にする様子もなく、静かにイスから立ち上がると、 「おばあさん。おばあさん。今夜はお客様が泊るから寝床の準備をして下さい。」  私はわくわくしながら、たばこの灰をはたくのも忘れて、親切そうなミスラ君の顔を思わずじっと見上げました。


       ×          ×          ×

 私がミスラ君に魔術を教わってから一か月後のことです。この日も雨の降る夜でした。私は銀座の社交場(=social meeting place)で、五、六人(=5人または6人)の友人と、暖炉の前へ座りながら、雑談を楽しんでいました。銀座は東京の中心なので外の雨音でさえミスラ君の住んでいる郊外よりはさびしくありません。もちろん、部屋の中もずっと明るくてにぎやかです。私たちはしばらく、猟(りょう)や競馬(けいば)の話をしていましたが、友人の一人が、私の方へ振り向いて話しかけました。
「ところで君は最近、魔術をやるらしいね。今から僕たちの前でやってみせてくれないか。」
「いいでしょう。」
 私はイスの背に頭をもたせたまま、まるで魔術の専門家のようにこう答えました。
「じゃあ、手品師にはできそうにない、不思議な術を使ってみせてよ。」
 友人たちは皆、私が魔術をやってみせることを期待しました。そこで私はゆっくりと立ち上って、
「よく見ていてよ。僕の使う魔術には種も仕かけもないのだから。」
 私はこう言いながら、両手の袖口(そでぐち)をまくり上げて、暖炉の中で燃えている石炭を両手ですくい上げました。友人たちは、これだけでも驚(おどろ)いたのでしょう。みんなで顔を見合せながらうっかり側へ寄って火傷(やけど)でもしては大変だと、気味悪(きみわ)るそうにして、後ずさりを始めるのです。そこで私は落ち着いた様子で両手に持っている石炭の火をしばらくの間、みんなに見せました。そして、今度はそれを勢いよく床(ゆか)へ撒(ま)き散らそうとした途端、赤い石炭の火は無数の美しい金貨になって、雨のように床の上へ落ちました。
 友人たちは呆気(あっけ)にとられました。
「まっ、ちょいとこんなものさ。」
 私は得意気な笑みを浮かべて、静かに元のイスに座りました。
「これはみんな本物の金貨かい。」
 呆気にとられていた友人の一人が、ようやくこう私に質問をしたのは、それから約五分後のことです。
「本物の金貨さ。嘘(うそ)だと思ったら、手にとってみなよ。」
「まさか火傷(やけど)はしないよね。」
 友人の一人は恐る恐る、床の上の金貨を手にとってみましたが、
「なるほど、これは本物の金貨だ。[従業員へ向かって]箒(ほうき)と塵取(ちりとり)を持って来て、これを全部(ぜんぶ)掃(は)き集めてくれ。」
 従業員はすぐに言いつけられた通り、床の上の金貨を掃き集めて、近くのテーブルへ盛り上げました。友人たちはそのテーブルのまわりを囲みながら、
「ざっと二十万円くらいはありそうだね。」
「いや、もっとありそうだ。華奢(きゃしゃ)なテーブルなら、つぶれてしまうくらいあるじゃないか。」
「すごい魔術を習ったものだ。石炭の火がすぐに金貨になるのだから。」
「これだと一週間もしない内に大金持ちになってしまうだろう。」などと、口々に私の魔術を褒(ほ)めました。が、私はやはりイスによりかかったまま、落ち着いた様子でたばこの煙を吐いて、「いや、僕の魔術は一度でも欲を出したら、二度と使うことができなくなるのだ。だから、この金貨も君たちが見てしまった以上はすぐにまた元の暖炉の中へ放りこんでしまおうと思っている。」
 友人たちは私の言葉を聞くと、みんな反対し始めました。これだけの大金を元の石炭にしてしまうのは、もったいない話だと言うのです。しかし、私はミスラ君に欲を出さないと約束したため、どうしても暖炉に放りこむと、頑(かたく)なに友人たちと言い争いをしました。すると、その友人たちの中でも、一番ずる賢い男が鼻の先で、せせら笑いながら、
「君はこの金貨を元の石炭にしようと言う。僕たちはまたしたくないと言う。それじゃいつまでたってもらちが明かないだろう。そこで僕が思うには、この金貨を元手にして、君が僕たちとトランプで賭けをするのだ。それでもし君が勝ったなら、その金貨は君の自由にすればいい。しかし、もし僕たちが勝ったなら、金貨のまま僕たちへ渡してくれ。そうすればお互いの主張が通って、納得がいくだろう。」
 それでも私はその提案に賛成しませんでした。ところがその友人は、いよいよ嘲(あざけ)るような笑(え)みを浮べながら、私とテーブルの上の金貨とを狡(ずる)そうにじろじろ見比べて、
「君が僕たちとトランプをしないのは、つまりその金貨を僕たちに取られたくないと思うからだろう。それなら魔術を使うために欲を捨てたという、せっかくの君の決心も怪しくなるよ。」
「いや、何も僕は、この金貨を取られたくないから石炭にするのではない。」
「それならトランプをやろうじゃないか。」
 何度もこういう議論(ぎろん)を繰返した後で、結局、私はその友人の言葉通り、テーブルの上の金貨を元手(もとで)にトランプをする羽目(はめ)になりました。もちろん、友人たちは大喜びで、すぐにトランプを用意すると、ためらっている私を部屋の隅にあるカジノテーブルへと急がせるのです。私も仕方がないので、しばらくの間は友人たちを相手に、嫌々トランプをしていました。しかし、なぜかその夜に限って、普段は特にトランプが上手でもない私が、嘘(うそ)のようにどんどん勝つのです。するとまた不思議なことに始めは気のりがしなかったのが、だんだん面白くなり始めて、ものの十分とたたない内に夢中になってトランプを引き始めました。
 友人たちは元より金貨を全て奪うつもりで、トランプを始めたのですから、すごく焦り、必死になって勝負を争いだしました。しかし、友人たちがいくら必死になっても私は一度も負けないばかりか、とうとう金貨とほぼ同じ金額(きんがく)だけ、私の方が勝ってしまいました。すると先ほどの悪友が、まるで、気が狂ったように私の前に札をつきつけながら、
「さあ、引けよ。僕は僕の財産を全部賭ける。家も土地も馬も自動車も全て賭ける。その代り君はあの金貨のほかに、今まで君が勝った金を全て賭けるのだ。さあ、引けよ。」
 私はこの瞬間(しゅんかん)に欲が出ました。テーブルの上に積んである山のような金貨ばかりか、せっかく私が勝った金でさえ、今度、負けてしまったら相手の友人に全部取られてしまいます。しかし、この勝負に勝ちさえすれば、私は相手の全財産を一度に手へ入れることが出来るのです。こんな時に使わなければ魔術を教わった甲斐(かい)がありません。そう思うと私は我慢(がまん)できず、こっそり魔術を使いながら、決闘でもするような勢いで、
「よろしい。まず君から引けよ。」
「九。」
「キング!」
 私は勝ち誇った声をあげながら、真っ青(まっさお)になった相手の目の前へ、引き当てた札(ふだ)を出して見せました。すると不思議にもそのトランプのキングが、まるで魂(たましい)が入ったように、冠(かんむり)をかぶった頭を持ち上げて、札の外へ体を出すと、行儀よく剣を持ったまま、にやりと気味の悪い微笑を浮べて、
「おばあさん。おばあさん。お客様は帰るから寝床の準備はしなくていいですよ。」
と、聞き覚えのある声で言うのです。と思うと窓の外の雨音が急にまた郊外のさびしい雨音になりました。


       ×          ×          ×

 ふと気がついてあたりを見まわすと、私はまだミスラ君の部屋の中で、トランプのキングのような微笑を浮べているミスラ君と、向い合って座っていたのです。私が指の間に挟(はさ)んだたばこの灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一か月たったと思ったのは、ほんの二、三分の間に見た、夢だったのに違いありません。けれどもその短い間に私が魔術を習う資格(しかく)のない人間だということは私自身にもミスラ君にも明らかになってしまったのです。私は恥(はずか)しさのあまり、しばらくは口もきけませんでした。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」
ミスラ君は気の毒そうな目つきをしながら、赤い花模様のテーブルクロスの上に肘(ひじ)をついて、静かに私に言いました。
(1919)