「芋粥(いもがゆ)」芥川龍之介 Yam Gruel by Ryunosuke Akutagawa

Rewrite [N3-N4 level]

 平安時代のある侍の話である。名前は五位である。五位はとても不細工(ぶさいく)な男だ。背が低く、鼻が赤い。他にも多くの欠点がある。
 ただ、ずっと前から同じような格好をして同じような役目を飽きずに毎日、繰り返している事だけは確かである。
 このような男はやはりまわりの人間からひどいあつかいを受ける。仕事仲間の全員が彼のことを冷たくあしらった。だが、それにもかかわらず男は腹を立てた事がない。彼はそれほど、意気地なしで臆病な男だったのである。
 また、彼は誰が見てもみすぼらしい格好をしている。その上、歩き方もだらしなく落ち着かないため、通りがかりの物売りにまで馬鹿にされる。
 ある日、五位は神泉苑[A Name of the temple]へ行く途中、数人の子供達が道端(みちばた)で犬に乱暴しているところを見た。臆病な五位は、これまで何かに同情する事はあっても、一度もそれを行動に起こしたことがない。しかし、この時だけは相手が子供なので、少し勇気が出た。そこで出来るだけ、笑顔をつくりながら、年長の子供の肩を叩いて「もう、許してやりなさい。かわいそうだよ。」と声をかけた。すると、その子供は振り返りながら、上目を使って、蔑(さげ)すむように、じろじろ五位の姿を見た。「余計なお世話だ。」その子供は高慢な態度でこう言った。「赤い鼻のくせに。」五位はこの語が自分の顔を打ったように感じた。しかし、それは悪態をつかれて、腹が立ったからではない。言わなくてもいい事を言って、恥をかいた自分が、情けなくなったからである。彼は、きまりが悪いのを苦しい笑顔に隠しながら、黙って、また神泉苑の方へ歩き出した。後ろでは子供達が彼を馬鹿にする身振り(=ジェスチャー)をしている。もちろん彼はそんな事を知らない。たとえ、知っていたにしても意気地のない五位には関係のないことである。……
 では、彼は、ただ軽蔑されるために生まれてきただけで、何の希望も持っていないかというと、そうではない。五位は五、六年前から芋粥に異常な執着を持っている。芋粥とは山芋を切って、それを甘い汁で煮た粥の事をいうのである。当時はこれが美味として王様の食事に採用された。従って、五位の身分では年に一度の宴会の時にしか手に入らない。さらに、その時でさえ飲めるのはごく少量である。そこで芋粥を飽きる程飲んで見たいという事が、ずっと前から、彼の唯一の欲望になっていた。もちろん、彼は、それを誰にも話した事はない。いや彼自身さえそれが、彼の一生を貫いている欲望だとは、はっきりとは意識しなかった事だろう。だが事実、彼はそのために、生きていると言っても過言ではなかった。――人間は、時として、充されるか充されないか、わからない欲望の為に、一生を捧げてしまう。その愚さを笑う者は、結局、人生の傍観者に過ぎない。
 しかし、五位が夢に見ていた「芋粥に飽きる」ということは意外にも実現した。その一部始終を書こうというのが、この話の目的なのである。
       ―――――――――――――――――  ある年の一月二日、王様の家で宴会があった時の事である。五位もほか侍たちと一緒に食べ残しにありついたが、品数の多いわりにろくな物はなかった。ただ、その中に例の芋粥があつた。五位は毎年、この芋粥を楽しみにしている。しかし、いつも人数が多いので、自分が飲めるのは、いくらもない。それが今年は特に少かった。そして、気のせいかいつもよりとても味が好い。そこで、彼は飲んでしまった後の椀をしげしげと眺めながら、うすい口髭についている滴(しずく)を、掌(てのひら)で拭いて誰に言うともなく、「いつになったら、これに飽きるかなあ」と言った。
「五位殿は芋粥に飽きた事がないそうですね。」
 五位の言葉が終わらない内に、誰かが、あざ笑った。錆のある、鷹揚な、武人らしい声である。五位は、猫背の首を挙げて、臆病らしく、その人の方を見た。声の主は、その頃同じく王様に仕えていた藤原利仁である。肩幅の広く、背が非常に高いたくましい男で、煠栗(ゆでぐり)を噛みながら、酒を飲んでいた。もう大分酔いがまわっているらしい。
「お気の毒ですね。」利仁は、五位が顔を挙げたのを見ると、軽蔑と憐憫とを一つにしたような声で、言葉を続けた。「お望みなら、利仁が飽きさせてあげましょう。」
 始終、いじめられている犬がたまに肉をもらっても容易によりつかないのと同じように、五位は笑うのか泣くのかわからないような笑顔をして、利仁の顔と空の椀を見比べていた。
「嫌ですか。」
「……」
「どうですか。」
「……」
 五位は、その中に周囲の視線が自分の上に、集まっているのを感じ出した。答え方一つで、また周囲の嘲笑を受けなければならない。あるいは、どう答えても、結局、馬鹿にされそうな気さえする。彼は躊躇(ちゅうちょ)した。もし、その時に相手が少し面倒臭そうな声で「嫌なら無理強いはしない。」と言わなかったなら、五位は、何時までも、椀と利仁とを、見比べていた事であろう。
 彼は、それを聞くとあわてて答えた。
「いや……恐れ入ります。」
 この問答を聞いていた者は、皆、一斉に失笑した。
「では、そのうちお誘いしましょう。よろしいですね。」
「恐れ入ります。」
 五位は顔を赤くし、吃(ども)りながら、同じ答えを繰り返した。周囲が今度も笑ったのは言うまでもない。それを言わせるために、わざわざ念を押した利仁本人にいたっては、前よりも一層可笑そさうに広い肩をゆすって、哄笑(こうしょう)した。この男は生活の方法を二つしか心得ていない。一つは酒を飲む事で、他の一つは笑う事である。
 ところが、幸い談話の中心は、この二人を離れてしまった。これは事によると、他の連中が、たとえ嘲弄にしろ、一同の注意をこの赤鼻の五位に集中させるのが、不快だったからかも知れない。とにかく、話題は別の話に移り、皆の興味はそちらに移った。しかし、五位だけは、まるで外の話が聞えないらしい。恐らく芋粥の二字が、彼のすべての思考を支配しているからであろう。前の食べ物に箸をつけない。酒があっても、口を触れない。彼は、ただ両手を膝の上に置いて、お見合いをする娘のように初々しい様子で、いつまでも空になったお椀を見つめて微笑しているのである。……        ―――――――――――――――――  それから、四、五日経った日の午前、粟田口[A Name of the place]へ通う街道を、静かに馬を進めてゆく二人の男があつた。一人は青色の衣(ころも)に同じ色の袴(はかま)をして、立派な刀(かたな)を身に着けた黒ひげの男である。もう一人は、だらしない格好の四十歳くらいの侍である。もっとも、馬は二頭とも、前のは月毛、後のは蘆毛の三歳駒で、道をゆく物売りや侍も、振向いて見る程の駿足である。その後から又二人、馬の歩みに遅れまいとしてついて行くのは、利仁の付き人に違いない。――これが、利仁と五位との一行である事は、わざわざ、ここに断るまでもない話であろう。  冬にもかかわらず静かな晴れた日で風も吹いていない。二人はその中を悠々と進み、粟田口を指して行くのである。 「どこでしょうか、私を連れて行ってくれるとおっしゃったのは。」五位が言った。 「すぐ、そこだ。心配するほど遠くはない。」 「すると、粟田口の辺りかな。」 「そう思ってくれて結構です。」  利仁は今朝、五位を誘うのに、東山の近くに湯の湧いている所があるから、そこへ行こうと言って出て来たのである。赤鼻の五位は、それを真にうけた。久しく湯に入らないので、体中がこの間からむず痒い。芋粥を御馳走になった上に、入湯が出来れば、願ってもない仕合せである。こう思って、予め利仁がひかせて来た馬に乗った。ところが、ここまで来て見ると、どうも利仁はこの近所へ来るつもりではないらしい。現に、そうこうしているうちに、粟田口は通りすぎた。 「粟田口ではないですね。」 「いかにも、その通りです。」  利仁は、微笑を含みながら、わざと、五位の顔を見ないやうにして、静かに馬を歩ませている。 「では、山科の辺りですかな。」 「山科はこちらです。もう少し、先ですよ。」  なるほど、そう言ううちに山科も通りすぎた。それ所ではない。何かとする中に、関山も後にして、かれこれ、正午少しすぎた頃には、とうとう三井寺の前へ来た。三井寺には、利仁の懇意にしている僧がある。二人はその僧を訪ねて昼食を御馳走になった。それがすむと、また、馬に乗って道を進む。行く手は今まで来た路(みち)に比べるとはるかに人気(ひとけ)がない。実に当時は盗賊が横行した物騒な時代である。――五位は猫背を一層低くしながら、利仁の顔を見上げるようにしてたずねた。 「まだ、先ですか。」  利仁は微笑した。悪戯をして、それを見つけられそうになった子供が、年長者に向ってするような微笑である。鼻の先へよせた皺と、眼尻にたたえた筋肉のたるみとが、笑ってしまうか、しまうまいかとためらっているらしい。そうして、とうとう、こう言った。 「実はな、敦賀まで、お連れしようと思ったのだ。」笑いながら、利仁は鞭を挙げて遠くの空を指さした。その鞭の下にはあざやかに白く輝く午後の日の光を受けた近江の湖が光っている。  五位は、狼狽した。 「敦賀と申すと、あの越前の敦賀でござるかな。あの越前の――」  利仁が、敦賀の藤原有仁の女婿になってから、敦賀に住んでいることが多い事も日頃から聞いていない事はない。が、その敦賀まで自分を連れて行く気だとは、今の今まで思わなかった。第一、幾多の山河を隔ててゐる越前の国へ、この通り、わずか二人の伴人をつれただけで、どうして無事に行かれよう。ましてこの頃は、往来の旅人が、盗賊の為に殺されたという噂さえある。――五位は歎願(たんがん)するように、利仁の顔を見た。 「それは又、滅相(めっそう)な、東山だと思えば、山科。山科じゃと思えば、三井寺。揚句が越前の敦賀とは、一体どういうことでしょうか。始めから、そうおっしゃられたなら、下人を連れてきたのに。――敦賀とは、滅相な。」  五位は、殆どべそを掻かないばかりになって、呟いた。もし「芋粥に飽きる」事が、彼の勇気を鼓舞しなかったとしたら、彼は恐らく、そこから別れて、京都へ独り帰って来た事であろう。 「利仁が一人居るのは、千人とも思いなされ。道中の心配は、御無用じゃ。」  五位の狼狽するのを見ると、利仁は、少し眉をしかめながら、嘲笑った。そして家来に持たせて来た黒漆の真弓を受け取って、それを鞍上に置きながら、先頭に立って馬を進めた。こうなる以上、意気地のない五位は利仁の意志に仕方なく従うしかない。それで、彼は心細そうに、荒涼とした周囲の原野を眺めながら、うろ覚えの観音経を口の中に念じ念じ、例の赤鼻を鞍の前輪にすりつけるようにして、覚束ない馬の歩みを、相変わらずぼとぼと進めて行った。  馬蹄の反響する野は、茫々たる黄茅(こうぼう)に覆われて、その所々にある行潦(にわたずみ)も、つめたく、青空を映したまま、この冬の午後にいつかそれなり凍ってしまうかもしれない。その果てには、一帯の山脈が、日に背にしているのか、かがやくべき残雪の光もなく、紫がかった暗い色を、長々となすっているが、それさえ蕭条(しょうじょう)たる幾叢(いくむら)の枯薄(かれすすき)に遮られて、二人の従者の眼には、入らない事が多い。――すると、利仁が、突然、五位の方を振り向いて、声をかけた。 「あれに、よい使者が参った。敦賀へ伝言させよう。」  五位は利仁の言う意味が、よくわからないので、怖々ながら、その弓で指さす方を、眺めて見た。元より人の姿が見えるような所ではない。唯、野葡萄か何かの蔓が、灌木の一むらにからみついている中を、一匹の狐が、暖かな毛の色を、傾きかけた日に曝しながら、のそりのそり歩いて行く。――と思う中に、狐は、慌ただしく身を跳らせて、一散に、どこともなく走り出した。利仁が急に、鞭を鳴らせて、その方へ馬を飛ばし始めたからである。五位も我(われ)を忘れて利仁の後を追った。従者も勿論、遅れてはいられない。しばらくは、石を蹴る馬蹄の音が、戞々として、荒野の静けさを破っていたが、やがて利仁が、馬を止めたのを見ると、いつ捕えたのか、もう狐の後足を掴んで鞍の側へ、ぶら下げている。狐が、走れなくなるまで、追いつめた所で、それを馬の下に敷いて、手取りにしたものであろう。五位は、うすい髭にたまる汗を、慌しく拭きながら、ようやく、その傍(かたわら)へ馬を乗りつけた。 「これ、狐、よく聞けよ。」利仁は、狐を高く眼の前へつるし上げながら、わざと物々しい声を出してこう言った。「狐よ、今夜中に敦賀の利仁の館へ参って、こう申せ。『利仁は、ただいま客人を連れている。明日、午前十時頃、高島の辺まで、男たちを迎えに来させなさい。それに、鞍置馬二匹、牽かせて参れ。』よいか忘れるなよ。」  言い終わると共に利仁は一ふり振って狐を遠くの草むらの中へ放り出した。 「いや、走るわ。走るわ。」  やっと追いついた二人の従者は、逃げてゆく狐の行方を眺めながら、手を拍いてはやし立てた。落葉のような色をしたその獣の背は、夕日の中を、まっしぐらに、木の根(ね)石(いし)くれの嫌おうなく、何処までも、走って行く。それが一行の立っている所から、手にとるようによく見えた。狐を追っている中に、いつか彼等は、荒野が緩い斜面を作って、水の涸れた川床と一つになる、その丁度上の所へ、出ていたからである。 「度量の広い使者ですな。」  五位は、ナイーブな尊敬と讃嘆とを洩らしながら、この狐でさえ顎で使う野育ちの武人の顔を、今更のように、仰いで見た。自分と利仁との間に、どれ程の差があるか、そんな事は、考える暇がない。ただ、利仁の意志に支配される範囲が広いだけに、その意志の中に包容される自分の意志も、それだけ自由が利くようになった事を、心強く感じるだけである。  放り出された狐は斜面を転げるようにして駈け下りると水の無い河床の石の間を器用にぴょいぴょい飛び越えて、今度は向い側の斜面へ勢いよく斜めに駈け上った。駈け上りながら、振り返ってみると、自分を手捕りにした侍の一行は、まだ遠い傾斜の上に馬を並べて立っている。それが皆、指を揃えた程に小さく見えた。とりわけ西日を浴びた月毛と蘆毛とが霜を含んだ空気の中に描いたよりもくっきりと、浮き上っている。  狐は頭をめぐらすと再び枯薄の中を風のように走り出した。        ―――――――――――――――――  一行は、予定通り翌日の午前十時に高島の辺へ来た。此処は琵琶湖に臨んだ、ささやかな部落で、昨日に似ず、どんよりと曇った空の下に、幾戸の藁屋が、疎にちらばっているばかり、岸に生えた松の樹の間には灰色のさざ波をよせる湖の水面が、磨くのを忘れた鏡のやうに、さむざむと開けている。――ここまで来ると利仁が、五位を顧(かえり)みて言った。 「あれを御覧なさい。男どもが、迎えに参った。」  見ると、なるほど、二匹の鞍置馬を牽いた、二三十人の男たちが、馬に跨がつたのもあり徒歩のもあり、皆、袖を寒風に翻へして、湖の岸、松の間を、一行の方へ急いで来る。やがてこれが、間近くなつたと思ふと、馬に乗つていた連中は、慌ただしく鞍を下り、徒歩の連中は、路傍に膝をついて、いずれも恭々(うやうや)しく、利仁の来るのを、待ちうけた。 「やはり、あの狐が、使者を勤めたと見えますのう。」 「生まれつき、能力を持っている動物じゃ。あの位の用を勤めるのは何でもない。」  五位と利仁とが、こんな話をしている中に、一行は、家来たちの待っている所へ来た。「ご苦労さん。」と、利仁が声をかける。膝をついていた連中が、すぐに立って、二人の馬の口を取る。急に、すべてが陽気になった。 「夜前、稀有な事が、ございましてな。」  二人が馬から下りて敷物の上へ腰を下すか下さないうちに赤茶色の着物を着た、白髪の従者が、利仁の前へ来て、こう言った。「何じゃ。」利仁は、従者たちの持って来た酒や食べ物を五位にも勧めながら、鷹揚に問いかけた。 「なぜなら、昨日の夜八時頃に奥様が我を失って、『おのれは、阪本の狐じゃ。今日、殿の仰られた事を、申し伝えるので近寄って、よく聞きたまえ。』と、こうおっしゃるのでございまする。さて、一同がそばによってに参りますると、奥方の仰るには、『殿は唯今、客人を連れ立って、下られようとする所ぢや。明日午前10時頃、高島の辺まで、男どもを迎えに遺はし、それに鞍置馬二匹牽かせて参れ。』と、こう仰るのでございます。」 「それは、また稀有な事でござるのう。」五位は利仁の顔と、従者の顔とを、仔細(しさい)らしく見比べながら、両方に満足を与えるやうな、相槌を打つた。 「それも唯、仰せられるのではございませぬ。さも、恐ろしそうに、わなわなとお震へになりましてな、『遅れまいぞ。遅れれば、おのれが、殿の御勘当をうけねばならぬ。』と、しっきりなしに、お泣きになるのでございまする。」 「して、それから、いかがした。」 「それから、まもなくお休みになりましてな。手前共の出て参りまする時にも、まだ、お目ざめにはならぬようで、ございました。」 「いかがですか。」従者の話を聞き終わると、利仁は五位を見て、得意らしく言った。「私には動物も扱えますぞ。」 「驚くよりほかはありません。」五位は、赤鼻を掻きながら、ちょいと、頭を下げて、それから、わざとらしく、呆れたやうに、口を開いて見せた。口髭には、今飲んだ酒が、滴になって、くっついている。        ―――――――――――――――――  その日の夜の事である。五位は、利仁の館の一間に、切燈台(きりとうだい)の灯を眺めるともなく、眺めながら、寝つかれない長い夜をまぢまぢして、明していた。すると、夕方、此処へ着くまでに、利仁や利仁の従者と、談笑しながら、越えて来た松山、小川、枯野、或は、草、木の葉、石、野火の煙のにほひ、――そういうものが、一つづつ、五位の心に、浮んで来た。とりわけ、雀色時の靄の中を、やつと、この館へ辿りついて、長櫃(ながびつ)に起してある、炭火の赤い焔を見た時の、ほっとした心もち、――それも、今こうして、寝ていると、遠い昔にあった事としか、思はれない。五位は綿の四五寸も入った、黄色い直垂(ひたたれ)の下に、楽々と、足をのばしながら、ぼんやり、われとわが寝姿を見廻した。  直垂の下に利仁が貸してくれた、練色の衣の綿厚なのを、二枚まで重ねて、着こんでいる。それだけでも、どうかすると、汗が出かねない程、暖かい。そこへ、夕飯の時に一杯やった、酒の酔が手伝っている。枕元の戸一つ隔てた向うは、霜の冴えた広い庭だが、それも、かう陶然(とうぜん)としていれば、少しも苦にならない。万事が、京都の自分の部屋にいた時と比べれば、雲泥の差である。が、それにも係はらず、我五位の心には、何となく釣合のとれない不安があつた。第一、時間の経って行くのが、待ち遠しい。しかもそれと同時に、夜の明けるという事が、――芋粥を食う時になるという事が、そう早く、来てはならないような心もちがする。そして、この矛盾した二つの感情が重なり、急な環境の変化から来る落着かない気分が、今日の天気のように、うすら寒く控えている。それが、皆、邪魔になって、折角の暖かさも、容易に、眠りを誘いそうもない。  すると、外の広庭で、誰か大きな声を出してゐるのが、耳にはいつた。声がらでは、どうも、今日、途中まで迎へに出た、白髪の従者が何か号令をかけているらしい。その乾からびた声が、霜に響くせいか、凛々として木枯らしのやうに、一語づつ五位の骨に、応えるような気さえする。 「この辺の下人、承われ。殿の御意向では、明朝、六時までに、直径9cm、長さ1.5mの山芋を各一本ずつ、持ってくる様にとある。忘れるな、六時までにじゃ。」  それが、二三度、繰返されたかと思ふと、やがて、人のけはひが止んで、あたりは忽ち元のやうに、静な冬の夜になつた。その静な中に、切燈台の油が鳴る。赤い真綿のやうな火が、ゆらゆらする。五位は欠伸を一つ、噛みつぶして、又、とりとめのない、思量に耽り出した。――山芋というからには、勿論芋粥にする気で、持つて来させるのに相違ない。そう思ふと、一時、外に注意を集中したおかげで忘れていた、さっきの不安が、何時の間にか、心に帰って来る。とりわけ、前よりも、一層強くなったのは、あまり早く芋粥にありつきたくないという心もちで、それが意地悪く、思量の中心を離れない。どうもこう容易に「芋粥に飽かむ」事が、事実となって現れては、折角今まで、何年となく、辛抱して待っていたのが、如何にも、無駄な骨折のやうに、見えてしまう。出来る事なら、突然何か故障が起つて一旦、芋粥が飲めなくなってから、又、その故障がなくなって、今度は、やっとこれにありつけるというような、そんな手続きに、万事を運ばせたい。――こんな考えが、「独楽」のように、ぐるぐる一つ所を廻つている中に、いつしか五位は、旅の疲れでぐっすり眠ってしまった。  翌朝、目がさめると、すぐに昨夜の山芋の一件が、気になるので、五位は、何よりも先に部屋の戸を開けて見た。すると、知らないうちに、寝すごして、もう六時を過ぎていたのであろう。広い庭へ敷いた、四五枚の長筵(ながむしろ)の上には、丸太のような物が、およそ二、三千本、斜につき出した、檜皮葺の軒先へつかえる程、山のやうに、積んである。見るとそれが、全て、例の山芋であった。  五位は、寝起きの目をこすりながら、殆ど狼狽に近い驚愕に襲われて、呆然と、周囲を見廻した。庭の所々には、新しく打つたらしい杭の上に五斛納釜(ごくのうがま)を五つ六つ、かけ連ねて、白い布の襖を着た若い下司女が、何十人となく、そのまはりに動いてゐる。火を焚きつけるもの、灰を掻くもの、或は、新しい白木の桶に、「あまづらみせん」を汲んで釜の中へ入れるもの、皆芋粥をつくる準備で、目のまはる程忙しい。釜の下から上る煙と、釜の中から湧く湯気とが、まだ消え残つてゐる明方の靄と一つになつて、広い庭に一面、はっきり物も見定められない程、灰色のものがこめた中で、赤いのは、烈々と燃え上る釜の下の焔ばかり、目に見るもの、耳に聞くもの悉く、戦場か火事場へでも行ったような騒ぎである。五位は、今更のように、この巨大な山芋が、この巨大な五斛納釜の中で、芋粥になる事を考えた。そして、自分が、その芋粥を食ふ為に京都から、わざわざ、越前の敦賀まで旅をして来た事を考えた。考えれば考える程、何一つ、食べたくならない理由がない。五位の同情すべき食欲は実はこの時もう半減してしまったのである。  それから、一時間後、五位は利仁や舅の有仁と共に、朝食の膳の前に座った。前にあるのは、銀の鍋いっぱいにつがれた、恐るべき芋粥である。五位はさっき、あの軒まで積上げた山の芋を、何十人かの若い男が、薄刃を器用に動かしながら、片端から削るやうに、勢よく切るのを見た。それからそれを、あの下司女たちが、右往左往に馳せちがつて、一つのこらず、五斛納釜へすくっては入れ、すくっては入れるのを見た。最後に、その山の芋が、一つも長筵の上に見えなくなつた時に、芋のにほひと、甘葛のにほひとを含んだ、幾道かの湯気の柱が、蓬々然として、釜の中から、晴れた朝の空へ、舞上って行くのを見た。これを、目のあたりに見た彼が、今、鍋に入れた芋粥を前にした時、まだ、口をつけない内から、既に満腹を感じたのは、恐らく、無理もない次第であろう。――五位は、鍋を前にして、間の悪そうに、額の汗を拭いた。 「芋粥に飽かれた事がないですよね。どうぞ、遠慮なく召上って下さい。」  舅の有仁は、童児たちに言いつけて、さらにいくつかの鍋を膳の上に並べさせた。中にはどれも芋粥が、溢れんばかりにはいっている。五位は目をつぶって、唯でさえ赤い鼻を、一層赤くしながら、鍋に半分ばかりの芋粥を大きな土器にすくって、いやいやながら飲み干した。 「父も、そう申しておる。遠慮は御無用じゃ。」  利仁も側から、新な鍋をすすめて、意地悪く笑いながらこんな事を言う。弱ったのは五位である。遠慮のない所を言えば、始めから芋粥は一口も食べたくない。それを今、我慢して、やっと、鍋に半分だけ平げた。これ以上、飲めば、喉を通り過ぎないうちにもどしてしまう、そうかと言って、飲まなければ、利仁や有仁の厚意を無駄にしてしまう。そこで、彼はまた目をつぶって、残りの半分を三分の一程飲み干した。もう後は一口も食べようがない。 「何とも、かたじけない。もう十分頂戴しました。――いやはや、何ともかたじけない。」  五位は、しどろもどろになつて、こう言った。余程弱ったと見えて、口髭にも、鼻の先にも、冬とは思えない程、汗が玉になって垂れている。 「これはまた、御少食じゃ。客人は遠慮をされると見えたぞ。それそれその方ども、何をしておる。」  童児たちは、有仁の語につれて、新な提の中から、芋粥を、土器に汲まうとする。五位は、両手を蠅でも追うように動かして、平に辞退の意を示した。 「いや、もう、十分です。……失礼ながら、十分です。」  もし、この時、利仁が、突然、向い側の軒先を指して、「あれを御覧なさい。」と言わなかったなら有仁はなお、五位に芋粥をすすめて止まなかったかも知れない。が、幸いにして利仁の声は一同の注意を、その軒の方へ持って行った。檜皮葺の軒には、丁度、朝日がさしている。そうして、そのまばゆい光に、光沢のいい毛皮を洗わせながら、一匹の動物が、おとなしく座っている。見るとそれは一昨日、利仁が枯野の路で手捕りにした、あの野狐であつた。 「狐も芋粥が欲しくて来たようだ。男ども、奴にも芋粥を食わせてやれ。」  利仁の命令は直ちに実行された。軒からとび下りた狐は、直に広庭で芋粥の馳走にありつけたのである。  五位は、芋粥を飲んでいる狐を眺めながら、ここへ来る前の彼自身を、なつかしく、心の中でふり返った。それは、多くの侍たちに愚弄されている彼である。京童にさえ「何じゃ。この鼻赤めが」と、罵られている彼である。みすぼらしい和服に飼主のない尨犬のように朱雀大路をうろついて歩く、憐むべき、孤独な彼である。しかし、同時に又、芋粥に飽きたいと言う欲望を、唯一人大事に守っていた、幸福な彼である。――彼はこれ以上芋粥を飲まずにすむと言う安心と共に満面の汗が次第に、鼻の先から乾いてゆくのを感じた。晴れてはいても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位は慌てて、鼻を押さえると同時に銀の鍋に向って大きなくしゃみをした。